ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』

 ヴァージニア・ウルフ灯台へ』の感想を書いてみる、といってもまだ100ページを読んだところだ、ぼくは感想や批評を書くために小説を読んでいない、ましてや要約する気などさらさらない、ぼくは小説を書くために読んでいる、ということができる、だから小説を読むとき、ぼくは文体の感触や書き綴られたその筆触を第一に感じ取っている、文体や筆触というのはおもしろいものだ、例えばベケットの文体がある、あの心地よい書きこぼし、言い換え、前後のふしぎな繋がり、それを読んでいるとぼくの中にもそのベケットの文体の動きが入ってくる、目の前で踊っている人に感化、さらには衝撃を受けて、食らいつくように、そして辿るように動きを内側から真似てゆくように。なにが書かれてあるか、と、どのように書かれてあるか、という問題がある、それを問題といっていいか分からない、ぼくはそもそもこんなことを書こうとしていたわけではない、ヴァージニア・ウルフだ、ヴァージニア・ウルフは視点が人物と人物の間と、自然の描写がめくるめくようにうつろってゆく、つまり複数の人物でありながら、視点は一つであると言ってもいいのではないか、だれに許しを乞うものでもないが、ぼくはそれが心地良い、そして自然の描写の密度はぼくの内側の殻を破り解放する、しかし文体は抑制的である、確かヴァージニア・ウルフは設計図を立ててから小説を書く人であったと思う、ぼくは小説に設計図は要らない、確実に保坂和志の影響を受けて、設計図無しで、ほとんどなにも決めずに一行目を書き出す、だからヴァージニア・ウルフの抑制的な感じは体に合わない、しかし不快というほどでもない、ああ、疲れてきたので今日はここまでにする、それでは。