テープに録音して文字を書く

 午前、十一時。テープに録音した文字、言葉を、打ち込み直し、ここに書こうと思う(実際は、一度原稿用紙に書き起こした)。テープで話す、文字になるものを書くと、常に時間が流れている。書くときは、時間が流れない。録音では、このテープが回る音、録音している機械の音、一つ言ってから、次に言うまでの、間、が、時間。途中で一時停止することもできる。僕の考え方、今の僕の考え方は、狭い、小さなことじゃないか。Kの話し方は、広く、深さもあり、十人が聞いたら十人、それぞれの理解をしようとする。大江健三郎の「新しい人よ眼ざめよ」の最初の短編、「無垢の歌、経験の歌」を読んで、Kが前に話していたことと、かさなってわかったことだが、Kにとっての定義というものが、概念的なものではなく、目で見えるものであり、時間が流れているもの、である。Kの定義、定義といっても、固定されたものではない。それを、概念に抽出することが、僕のあり方だと、信じていた。だが僕は、もっとKに、近づかなければならない。父が、その子をおそれたからといって、その子が、他のだれかを、おそれてはいけない。その子は、全身で、受け止めなければいけない。なぜか。部屋と部屋の間、一階と二階の間、その廊下をさまようゆうれいになってしまうからだ。

 文字を書くことはどもること。