「中にいながら、外にいること」

 ぼくはいま、何を考えているか。何も考えていないのか。十二月二十一日から四ヶ月もの間、考えることからも、何かをするということからも離れていた。四月二十一日から活動を再開して、今日で二週間が経つ。今だに薬を飲んでいるが、二週間前と比べると、回復している。ぼくは絵や小説や詩や踊り等の実践をしながらも、考えることに立ち帰りたいと思っている。実践しかできない期間があり、今は考えることもできる体力的な余裕が生まれている。今日、佐々木敦の『新しい小説のために』を読み始めた。読むことができた。考えるためには、考えを前進させるねじれるような、突き破るような文体の感触が必要である。それを読むことで、身につけてゆく。書くことで、身につけたものを実践してゆく。ぼくはいま、何を考えているか。四月二十二日に、Kと会った時、今は何を考えているかと聞かれ、ぼくは悪について答えた。「わたしとあなたの境目がなくなると、悪が起こり、境目を作る。境目がない状態で、奇跡的に保たれているのが山下澄人の小説だが、それは奇跡であり、すぐにわたしとあなたの戦争が起こる。境目がない極限の状態において、わたしはあなたであり、あなたはわたしであり、錯乱し、混沌とし、わけがわからなくなっていて、そこで悪は、わたしがあなたを殺すが、それはあなたがわたしを殺すことでもあり、わけがわからない状態で、それが今の時代で、あるいはこれから来るかもしれない時代であり、ぼくは、それ以外にどうやってわたしとあなたの境目を生み出すかを考えたい」というようなことを言った。Kは面白がって聞いてくれたのちに、「おれは悪を殺したらどうなるかを小説のなかで試みている」というようなことを言った。悪を殺すとはどういうことか。わたしとあなたの境目を作り出そうとするものを殺すことだ。悪を殺すことによって境目を作り出すのか。わたしとあなたの境目がなくなると、自然に悪が引き起こされる。その悪を、成し遂げられる前に、殺す。どのように殺すことができるのだろうか。悪を殺すこと。この話とは関係がないかもしれないが、Kはぼくの現状に対して「中にいながら、外にいること。具体的に言えば、働いていながら、働かないことが、お前にとって何かになるかもしれない」というようなことを言った。中にいながら、外にいること。それは、わたしでありながら、あなたであることだろうか。それはどういうことだろうか。わたしが、あなたを支配することだろうか。同時にそれは、あなたにわたしが支配されることだろうか。中にいながら、外にいることについて、ぼくはこれから考えることになる。