想像を絶した螺旋というべきだ

 今は14時20分。最近、昼食中キッズ・ウォーを見ている。僕が小学生くらいのとき、平日の昼間に放送されていたドラマ。夏休みによく見ていた気がする。〈これを書きながら、誰かに読まれている(かもしれない)ことを意識しすぎている。誰のためでもなく、一人で書いているということとの均衡!〉。
 その時代に依拠していたことによって成立していた「正義」と「悪」の対立関係が、今見ることによって全く間違っていることが瞭然だ。と、哲学っぽく書いてみたのは、「ニーチェと悪循環」を読んでいるから。僕が今考えていることは、「ニーチェと悪循環」によって成立しているとも言える。
ニーチェと悪循環によって成立している!」
 昼ドラとか火曜サスペンス?とかは、「正義」と「悪」がはっきりと分けられていて、あ、ごくせんとか。でもそれは、考え抜かれたことによってそうなったのではなくて、その時代の(時代という言葉を使ってみると少し大げさだなと思う)一般的なあり方を反映しているものであって、見ている人が「なんてひどいやつだ!」と思ったり、「あんなやつはやっつけちゃえ!」と思ったりできるから。一般的な「正義」と「悪」ではないものをドラマ化しても見ている人はおもしろくないからね。当たり前のことを書いていることに気づいた。でもどうでもいいことをぐだぐだ書くことがこのブログの役目でもある。書くことと読むことの循環。

「一つの思考は下降することによってはじめて上昇し、後退することによってはじめて進歩するーー想像を絶した螺旋というべきだ」

 昨日遊んだ友達と本について話したとき「ニーチェと悪循環」の序文を数ページ読んでもらったら、「難しい」とか「疲れる」とか「何度も読んでようやくなんとか分かった」とか「その思考は優れて明晰である故にこそ、錯乱的な解釈の様相をまとう」という箇所などに鮮烈な印象を受けたと言っていた。小説を読むときとは違った読み方で読めること。彼は最近、五冊の短編集を数編ずつ回し読みしていると言った。俺は本はけっこう持っているが、哲学書はこのくらいしか(と言って親指と人差指を広げながら)持ってないんだ。ブックオフに売っていることもほとんどないし。
「定価で買うと、その重みで読むことができそうだ。定価で買った本はすぐに読むからな」
繋がっていないこと書いたけど、手を加えることは面倒だ。書くときに繋げていないなら(繋がるということを意識していないなら)書き直して繋げても意味ない。
ごちゃごちゃ書いた。