吉増剛造「我が詩的自伝」

 前々回に書いたものを読むと、カレンダーでいう3ヶ月のことが見えてくるかもしれない。3ヶ月前に見えていなかったもの、今読むと予感はすでに書かれているが自覚されていなかったであろうものが、現在から見ることができる。吉増剛造の「我が詩的自伝」を読んだ。インターネットではなく、外部のものではなく、たしかな本屋で、だがどこの本屋だったか、立ち読みした雑誌に批評家がこの本のタイトルの「我が」と「自伝」を取り出して書き始めている文章を見つけ、息苦しくなった。僕は表紙もタイトルも気に入らず取ってカッターで切り落とした。すると本でありながらその輪郭がなくなったかのようだ。ニーチェ永劫回帰への至り方と同じだ、僕は今ニーチェだとか永劫回帰だとかよくはわかっていないことを書いたが、書き、その本は自分自身であり、脱することは不可能と思われるそこから生も死もその快楽もたしかな輪郭の、僕は、僕も、取り出されたい、吐き出されたい、真の二重人格になりたい、自ら(とニーチェは思わなかった)。
 Kは、現実を持たず、現象だけを持つ。だから現象に対して現象を対応する。言葉ではなく、場所だけをもって、Kは僕に殺されることを待っている。