心音、「あなた」と「わたし」

 このやる気のなさ、年に何度か見舞われる、どこかへ出かけるのも億劫、部屋で、何をするか、本を読むことも面倒だ、どうしてだろう、いざ読んでみたらおもしろいのではないか、ひとまず考える材料のように読めばいいのではないか。
 今日は配信を見ていた。そこで心音フェチを初めて知った。その彼女は喋らない、その代わりに胸にマイクをあてて心音を閲覧者に聞かせる、ドクドクッ、ドクドクッ、と聞こえている、彼女とはコメント欄で会話をした。
 心臓の音を聞くのは不思議な心地だった、これは性的な興奮状態の手前という感じだ、緊張状態にも似ている、これは彼女の心臓の音であっても僕の心臓の音であってももう一人の閲覧者であった彼の心臓の音であっても、同じだ。大げさにいうと生命のなかにいるという心地だ。彼女は心音を聞くと癒されるという。彼は心音を聞くと興奮もするという。「わたし」でもなく「あなた」でもない心臓の音。配信のノイズ、ホワイトノイズの遠くから心音が聞こえ、これは胎児にまで戻るのだろうか。
 配信サイトにはなぜか性同一性障害の人がたくさんいる。配信サイトに限らないのか、配信というものが、同一性となにか関わりがあるのか。男であるか女であるか、それは「わたし」であるか「あなた」であるかの同一性と比べ、どうか。わたしの体は男だが中身は女である、あるいはその逆、その同一できなさは、(当事者でないからか、)一見簡単なように見える。体は男である、というのは、乳房がなく、男性器がついているということだ。「男」という言葉を使わなくてもいい。男女合わせて100人いたら、見た目で分けることはできる。だが、わたしの体は男だが、中身は女だ、というとき、性別には見た目ではない、もう一種類があり、それは言葉だ。男の体がわたしは女だというとき、「わたしは女だ」はわたしの体から発せられていない。あなたがわたしを女だと言い続けたから、わたしは女だ、というように。(僕は勝手なことを言っているかもしれない)。わたしの体は男だがわたしは女だ、だからわたしの体も女にする、というとき、言葉から体を侵食させる。男が男であり、女が女であることがよくもわるくもないように、それもよくもわるくもない、か。わたしは一見わたしだが本当はあなたである、だからわたしのなにもかもをあなたにする。これは範囲が広すぎるかもしれない、だがここから性同一性障害というものが見えてくるかもしれない。
 配信者は誰に向けて話しているのだろう、それが性同一性障害の配信者が多いことの説明になる気がする。