半年ぶりの更新

 半年といっても、この三ヶ月は、ほとんど死んでいたので、三ヶ月前は、昨日のことのようで、だから、さらに三ヶ月前に、1行だが、更新をしていたことは、意外と近い。
 思いついたことをひたすら書いてみよう。この三ヶ月で、小説は、最初の一ヶ月で産み落とすことができたが、それ以降は、薬に頼り、あまり書くことがなく、寝て食べてを繰り返していた。それでも小説は、ぼちぼち書いていたが、詩や絵をかくことも、踊ることも、ほぼしなくなっている。このところ調子がよく、調子がいいということは創造する必要がないということで、ほんとうに死人だ、何もしていない、だから、まず、日記をつけようと思った。小説は、手製原稿に手書きで書くが、日記は、このブログに、打ち込んで書こう。日記ぐらい続けよう。日記を書かなくなったとしたら、その時はまた、創造に突っ走っているはずだ。今は、日記でいい。
 今日は、四月三日。今日は、何をしたか。
 この数日は、去年の九月十九日から、今年の一月三十日の間に書き、産み落とした『ねじ君の物語』という小説を、パソコンに打ち込み直している。三分の一は打ち込んだ。何もする気が起きていない今は、打ち込み直しにちょうどいい期間だと捉えて、こつこつ打ち込んでいる。この小説が、おもしろいかどうかは分からない。ところどころ、おお、よくやったな、と思うところはあるが、小説として成り立っているのか分からない。だがとにかくこつこつ打ち込んでいく。打ち込み終わったら、一度読み返しつつ推敲をして、友人のKに読んでもらおうと思う。この小説は、どうだろうか。分からない。残りの三分の二は、手製原稿一枚あたりの文字数が割と少ない、というか、字が少し大きいので、打ち込みやすいだろうから、あと六十枚を、一日十枚?は無理か、だが十枚くらい打ち込もう、だから、少なくとも、来週中に終わらせようと思う。
 本は、山下澄人の「ほしのこ」をぼちぼち読んでる。「わたし」のあり方がよくわかる、わかりすぎるので、昨日は読んでいなかったりする。小説が、どれだけ戦い抜いたかだとしたら、ぼくは、負けていないが、死闘の末にくたばるよりは、死闘の手前で長く続ける方がいいだろうか。最近思うが、精神病者は、ほとんどの芸術家以上に才能がある。多くの芸術家は、死闘をせずに済んでいるのではないか。死闘の末にくたばるのと、死闘の手前で芸術作品を生み出すのと、どっちが闘っているか。気が狂うことは、芸術を超えるのではないか。そんなことはない、気が狂ったら終わりだ、死だ、死闘の手前の死闘で、闘わなければならない。