その町に着いたのは、夜もおそくなってからだった

その町に着いたのは、夜もおそくなってからだった。町の駅は利用者の減少によってなくなり、代わりにその一つ隣の駅、つまりこの路線の終点の駅からその町へ出ているバスは、二十二時で終わりだった。十年前まではその町の先にも駅が二つあり、現在の終点から三つ先が終点だった。路線は三つの山が谷になった西の方へ進んでいる。途中別の方角へ反れることもあるが、大抵電車は三つの山のいずれかの方に向かっていた。十年前まではあった駅は三つの山のうちの二つのふもとにあったらしい。さらに昔、山の向こうにも一駅あったという話もある。山の谷の間のうねる路線を走る電車から見える景色はどんなにいいだろうと思う。その町の一つ隣の駅からその町へ歩いていくときあたりは暗かったが、外灯や明るい建物がない代わりに雲がほとんどない夜の空の月のあかりがあったから道をたどっていくことができた。歩くはやさで見えるものと電車のはやさで見えるものは違う。昼間に見えるものと夜に見えるものも違うが。月あかりにぼんやり浮かび上がる景色を見て、その昼間の景色を想像しようとした。だが浮かぶのは故郷の景色だった。そのとき辺りは真っ暗になった。それは15年前の景色だ。辺りは真っ暗で、道から落っこちてもおかしくはない。その景色は、中学校のグラウンドの周りを歩いているときだ。フェンスがめぐらされている。今でもある。というか、今でも週に一度はそこを歩いている。そこを歩いていても思い出さなかった。先頭に先生がいて、僕たち生徒は先生について歩いている。その景色というのは、僕たちが歩いているところも含んでいる。先生は、グラウンドで野球か、サッカーをしている生徒の一人に声をかけている。久しぶり!とか、そういうことだったと思う。その先生は、叔父さんの奥さんにすごく似ている。二人の顔は分けて思い浮かべることはできなくなっている。僕はそれもあって、叔父さんの奥さんに会うと、あのとき先生に甘えていたときの感じを思い出すからか、すごい親近感があるが、どうにも合わず、距離がある。その町にあと少しで着くころには、月は頭の真上にあった。ずっと見上げているわけではないが、歩いても歩いても月は頭の上にあり、僕と月は垂直につながっているような気がした。夜遅いせいもあるが、まだ誰ともすれ違わない。足元の太陽を感じながら、どうしようもなく月も感じながら、走った。すると道は行き止まりになった。はじめてくる場所の夜の行き止まりは、さみしいし、こわかった。だが、右の方に人一人ようやく通れるような隙間があり、そこからどこかへつながっていた。左の方は背の高い草がびっしり生え渡っていた。背の高い草の中で眠るのもいいかもしれないと思った。ついさっき通った道の上に落ちてた、大きな薄い板ーー僕は当たり前のように踏んで通ったがーーを草むらの中心において、その上で持ってきていたウイダーインゼリーでも飲みながらしばらくしてから板をとれば、ふさふさの草のベッドができる。その場でその想像をしていたら、まるでそのように休んでいたかのような気になり、(実際に一度はそのように休んだのかもしれない)、右の方へ行くことにした。行く前から、なぜだかその向こうを小川が流れていることに気づいていた。小川のせせらぎにうるおいを感じていたぐらいだ。僕は小川の水を飲みたかった。小川に入りたかった。水はきれいだった。きれいな水。朝になったら、事実はまた変わるかもしれない。今は、ごくごく飲みたい。夜にとって、朝はなく、朝は夢で、目がさめると真っ暗で、夜が果てしなく続いている。