彼について

 彼は記憶力がよく、印象的な出来事は映像のように鮮明に覚えていると言った。出来事を思い出すことは映像を見返すことに近いらしい。ということを、彼が小・中学生のときのことを話しているのを聞いて僕が感じたこれらのことを、彼が同意したのだった。人は誰かと話しているときに自分がどうであるか気づく、というのは、その誰かに自分とは違うものを見出したとき、「自分とは」というところで自分がどうであるのか気づく。人はその誰かがいなければ自分がどうであるか気づくことはないが、その誰かが何も言わず、佇まいや行動、しぐさだけでも、そこから違いの気配、そこから違いを見出すことが一番右にあるとして、一番左にあるのは僕が彼に対して彼の話から僕との違いを見出すことで、彼が自覚すること、か。
 夢の中のように(夢の外にいることはできないように)、彼は話す。彼が椅子に座り、僕がソフアで横になって話していた。彼にとって僕は現実だった。夢の中の、アニメなどでよくある空にそっくりな天井がびりびりやぶけるみたいに僕は現実、あるいは彼の場所からは感じることしかできない実感を僕は見ていた。が、彼は椅子に座り、僕はソファで横になってる。
 僕が彼と8時間話した昨日の中盤、一番考えていたのは、夢と同じような人や、小説に、価値があるか。誰もが見るであろう夢を、現実で、現実であることを自覚せず見ることは、一番左にあるのか。そのとき、一番右にあるのは哲学や批評のようなものなのか。あるいは、もっと違うか。
 全く自分とは違うものを前にしたときにもっともよく考える気がする。(まったく違ったところに句読点を置くこと?)。面や線だけの広がりはないために、多くのものを、位置する場所は違うにせよ価値としては等価なものとして、見たり読んだりすること。

 (自分でも分かりにくいので、後で書き直します)