作家のMの講演テープ

 作家のMの講演テープを聞きながら、いくつか考えた。エッセイと小説の朗読があり、それぞれの説明がある。「小説は'無意識'によって書いているのでどう書いたかというのは説明ができない」と、まず言っていた。('無意識'とはなにか)。朗読されたエッセイは、起承転結の形に沿って書かれていた。説明しやすいものを選んだのだと思う。聞きやすい朗読だった。 音声なので、音が意味につながる。文字の場合、形が意味につながる。あるいは、形が音を経由して意味につながる。(図式的な理解は、なぜかつまらなく感じる。思い出すことが図式的ではないことが関係しているかもしれない) 聞きやすさとは、意味の流れを捉えた発音であるかどうか、というだけでは説明がつかない。吉本隆明が言っていた、沈黙も言語であるということ。今、なぜ沈黙が言語であるのか、誰にでも伝えられるようには分かっていない。これ以上のことは今のところ書かないでおく。
 物語では言葉の一つが特別な意味につながるとき、それは流れや全体に委ねられていて、独立した気づきとは違う。流れは、ふつう現実では、外へ出てどっかに行ったり誰かに会ったりしなければあまりないように、そうして実際に言動しなくても、体の動きにつながらずどこかへ行ったり誰かに会ったりすることができるものが、物語、なのか。
 新たな体験をしたいのか。気づきを重ねたいのか。なにかを深めたいのか。書かずにはいられないと言う。だが書くことができなくなったとき、それでも書かずにはいられないのか。