音、川へ歩く

 その川には、昼過ぎに着いた。走るよりも歩く方がいろいろなものを見ることになる。ついさっき思ったのだが、道をまっすぐに歩いていて、途中十字路を渡り終わった直後に十字路の「ー」の道を車が通り過ぎたとき、そのまま歩き続けて振り向くこともない僕は、さっきの「ー」の道を車が通ったのだろうと思うが、音だけを聞いていると、そうとは思わない。「ー」の左端に車がいるときも走る音は聞こえていて、その十字路に僕が走って戻ってももうその車は見えないところにいたとしても音だけはまだ聞こえている。音は線的な理解ではなかった。僕はここにいるし、車の音は聞こえている。もっというと、車の音かもわからない。何もないところを中空とは言わない。言うことで理解が進むこともある。でも僕の関心ではない。
 そして、川に着いたのだった。この町には数万人くらい住んでいるはずなのに、川には河川敷を散歩する人、ランニングする人以外いなかった。ほんとうの川沿いには誰もいない。僕だけの川のようだが、川は流れ続けていた。こんなにも水があった。だが夏の台風のときには水かさも勢いも増し、ものすごい音をたてて流れ続ける。それを思うと楽しみになった。台風が去って数日後には、川の水はきれいだ。ほんとうにすべてを洗い流したみたいだった。気付いた瞬間には流れている。これまで流れず、川底に沈んでいたものまでも流れた。辺りにはいろんなものが落ちている。去年の夏は、僕はボールを見つけた。洗い流されてきれいなボール。それから色とりどりのペットボトルが1箇所の付近にちらばっていた。なつかしいラベルのペットボトルがあった。10年以上前の生茶とか、アクエリアスのペットボトル。その中にわずかに入っている水だけは流れなかった。だが濁流に巻き込まれながらペットボトルの中の水ははね回ったはずだ。それを思うとうれしかった。