キャラクタアと、キャラクタアではない。

 雨が降っていることに長い間気づかなかった。窓から見える景色は晴れ渡っていたからだ。だが、その窓は、かなり遠くの景色を区切っていて、この町のどこをも、このベッドからは見ることはできなかった。なにをする気力もなく、なにを考えているということもなかった。その遠くの空から差し込んでくる日差しにあたった浮いてるほこりがきらりと光ったりするのを(今思うとその光りかたには、この町に雨が降っていることをわずかに思わせるものがあった)見ていた。見るまでもなく見ていた。それからいつのまに眠った。
 夢は見なかった。夏の昼寝は眠りがぼおっと広がっていき、夏の雨の降り出してすなぼこりっぽい空気な中夢を見るが、雨であたりの春の兆しがしずまりすずしくなるような今は、夢を見ない。
 どういうことだろう。
 キャラクタアと、キャラクタアではない。
 テレビに出ているような人たちは、少なくとも僕にとってはキャラクタアだ。
 町を歩いてる人は、キャラクタアと、そうでない人がいる。
 分からない。
 雨が降っているとき足元で水が噴き出ているとき、それが雨が地面に跳ね返ったしぶきだと思うまでには時間がかかった。傘を裏返しにして水をためている人がいた。それはビニール傘にしかできないと言った。それをしてみたいと思ったが、そこまでしてみたいとも思わなかったかもしれない。ある時それをしてみたとき、思ったよりも楽しくなかったからだ。