トオマス・マンとバルザック、カラス

昨日、トオマス・マンとバルザックの短編を1つずつ読みました。トオマス・マンは「魔の山」という長編で有名ですが、バルザックも比較的世間に知られているのは「ゴリオ爺さん」などの長編で、短編となると、あまり読まれていないようである。長編の方が面白いかららしい。ーーとバルザックの訳者によるあとがきに書いてあった。しかし二十何編かの彼の短編が、みながみな傑作とはいえないにしても、なかには相当読み応えがある作品がないわけではない、とも書いてある。まるでバルザック自身が謙遜して書いてるかのようである。トオマス・マンでは、「幻滅」という15ページほどの短編を読んだ。始めに読んだのは「沙漠の情熱」という、バルザックの短編だった。この短編を読む前に、たしか精神分析医であるN氏の著作のうちのほんの一節を読んだ。こう書いてあった。「一つの例外もなく、すべての小説は、完全に孤独たりえていない。それは不可能なことで、必ず、「甘え」としての女性があらわれる」これは、今の僕の理解の範囲で、僕の言い方で書いたものなので、N氏が書いたこととはまったく違っているかもしれない。今は、僕の理解の上で、彼が、「甘え」というものがどんな小説にもあるのだと言ったことに印象を受けたということを書いておきたい。そのあと、「沙漠の情熱」を読み、捕虜にされてすぐに逃亡した兵士が気がつくと沙漠の真ん中でどこを見るも果てしない地平線しかのぞめない丘の上のヤシの木の下で、絶望したのち、自害しようとも思ったが、ふと木の向こうに行ってみるといくつもの岩のような平らな石の間に洞窟を見つけ、絶望が瞬く間に希望となり、生きる気力を戻し、なんやかんやの末夜になって疲れて眠ってうとうと真夜中目がさめると目の前にいた豹が、その豹がメスであるということを思いながら、雨の中、いつもの川へ向かう中、ここには書いていないが絶望と希望の幾度の上昇と下降が、メスの豹を前にしたときに落ち着いたということに気づき、川に行くと、大雨のせいで、川の流れは濁流となって右から左へものすごい速さで、もし足をすべらして川に落ちたら溺れ死ぬかもしれない、と思った。川のすぐそばを歩くのでほんとうに危ないのだ。すると近くにカラスがいた。カラスも濁流の川を見ていた。雨が降っているのに。僕はカッパを着ていたが、カラスのあの黒々とした鋼のような翼は(山で働いていた時、弱ったカラスがすぐそばにいたとき、カラスの羽がこのようであることに気づいた)水をはねるのだろうか。カラスのいる方へ走って行った。するとカラスは、僕が七メートルほどの距離にまで近づくと、その翼を広げ、川の方に向けて飛び上がった。ところで、そのとき、注意報が出るほど風が強く、カラスは、羽ばたかなかった。ただ風に対して翼をかたむけて、飛び上がった後は、風まかせに、ただ僕が走る前にいた方へ弧を描きながら浮くように落ちていったのだった。僕は振り返り、もう一度カラスめがけた。すると今度はカラスは僕と十メートルほどの距離のとき、再び飛び上がり、風まかせに、また僕が走る前にいた方へ行った。これをあと2回、距離が広がりながらも繰り返したあと、カラスは川とは逆の河川敷の歩道の方へ飛んでいき、追ったが、もういなかった。
 読んでいる間はおもしろかったのです。ただ、読み返してみようと思った時に、数ページで飽きてしまいました。一度読めば十分におもしろかったとも言えます。トオマス・マンの場合は、それとは少し違っていると言えます。これの場合も、もう一度読もうとは思いませんでしたが、たしかな残ったものがありました。どうもあの話の効果というのは、まったく一面識もない男が、呆れるほど率直に僕に語ってくれたその率直さのみにかかっているらしい、と「幻滅」の最初の箇所に書かれている通り、文体がどうとか小説としてどうとかそういったなんやかんやは無く、ただそこに書かれていた、多くの優れた詩や小説に書かれたようには幸福も絶望も訪れることがなかったこと、ということによる「幻滅」、「私は臨終の時、胸の中でこういうでしょう。ーーこれが死だ。今おれは死を体験しつつある。しかし、結局これがどうしたというのだ」、という「幻滅」が、僕のある一つの断片の延長にあるものとして、その延長から、こっちにたしかにやってきたのだった。