立ち還る

 ブログでは打ち込むことが決定されています。
(息苦しい一行目だな)
 朝、著作権の切れたクラシック音源を上げているサイトを見つけた。主に1940年から60年のものが多い。音源リストがあり、一つ選ぶと、その音源と、サイト管理人の解説が載っている。文にくさみがあり、一見邪魔だが、どうやらサイト管理人は音楽評論をよく読んでいて、基本的な考えはそこから受けているっぽいので、一般的に名盤だとされているものや一般的にそのどこがよいとされているかなどがあらわれているので、あってもいい、とした。

 高橋悠治、と検索すると、高橋悠治のサイトが一番上にあります。そこをクリックしてください。すると、簡単な線で描かれた人物絵(おそらくそれは高橋悠治です)と、いくつかのリストがあらわれます。文章、をクリックしてください。スマートフォンならば、その箇所を押してください。またリストがあらわれますね。もう無限にリストがあらわれるとお思いですか。無限、という囲いの試みは、間違った悟りです。はい。
 シューベルトの歌曲「冬の旅」の対訳がある。高橋悠治訳。クラシック音源のサイトに、ハンス・ホッターの「冬の旅」の音源があり、落として、対訳を印刷して、いくつか聴きながら歌詞の訳をみた。ぼくはこの次の行で書くことをほんとうはこの文章の最初の一行目に書こうとしていた。ぼくは回りくどいことをしてしまった。
 その訳は、左側のドイツ語に対して、右側にある。ハンス・ホッターはドイツ語で歌っているから、日本語訳は、左側のドイツ語歌詞のようにそのまま表しているのではなくて、この歌詞のなかにある思いのようだった。ハンス・ホッターの歌う歌詞が聞き取れないから、ハンス・ホッターの歌う歌詞は身振りのようなもので、見ることができれば誰でも見ることができるもので、高橋悠治の訳は、見ることのできないこころのなかみたいだった。

 夕方、歩きながら保坂和志「アウトブリード」に序文のように収録されている、友人Kの言葉を暗記していた。ここに覚えたところを書いてみる。

「友人Kは言った。あなたは今、さしあたり目標が形をもってしまったことで、あなたが以前よく口にしていた『愛』をなくしてしまったんじゃないのか。
 ゴッホが弟テオドルへあてた手紙に「きみは何がこの牢獄を消滅させるか知っているか。それは、深い、真面目な愛情なのだ。友人があること、兄弟があること、愛していること、これらのものこそがその至上の力と、その強力な魔力によって牢獄を開かせるのだ。これらがない者は、死の中に取り残されるのだ。だが共感が再生するところ、必ず生命も取り戻される」とあったじゃないか。
 カールベームが「私のモーツァルトの演奏は大勢の聴衆や演奏者に支持されました。それは私の演奏がモーツァルトへの愛に満ちているからだと思います。モーツァルトは感傷的ではありません。彼の音楽は人間の情熱のすべてですが、決して感傷的ではない」と言っていた「愛」や「情熱」のことだし、メルロ=ポンティが「音楽的ないし感覚的な諸理念は、それらが否定性ないし限定された不在であるが故に、われわれがその諸理念を所有するのではなく、その諸理念がわれわれを所有するのである。ソナタをつくったり再生したりするのは演奏者ではない、演奏者がソナタに奉仕するのであり、聴く人は演奏者がソナタに奉仕するのを聴くのだ」といっていた「奉仕」のことだよ。」
 今はここまで。
 答え合わせ。

 友人Kは言った。あなたはいま、さしあたり形になる目的を持ってしまったために、あなた自身が以前よく口にしていた『愛』を忘れてしまったんじゃないのか?
 ゴッホが弟テオへあてた手紙に「きみは何がこの牢獄を消滅させるか知っているか。それはすべての、深い、真面目な愛情なのだ。友人があること、兄弟があること、愛していること、これらのものこそその至上の力と、非常に強力な魔力で牢獄を開くのだ。だが、それらがない者は死のなかに取り残されるのだ。しかし、共感が再生するところ、必ず生命もよみがえる」と書いてあったじゃないか。
 カール・ベームが「いままで大勢の観客や演奏家が私のモーツァルトを支持してくれました。それは私の演奏がモーツァルトへの愛に満ちているからだと思います。モーツァルトはロマンチックでも感傷的でもありません。彼の音楽は人間の情熱のすべてですが、決して感傷的ではない」と言ったときの『愛』や『情熱』のことだし、メルロ=ポンティが「音楽的ないし感覚的な諸理念は、まさにそれらが否定性ないし限定された不在であるが故に、われわれがそれらを所有するのではなく、その諸理念がわれわれを所有するのである。ソナタを作ったり再生したりするのは、もはや演奏者ではない。彼は、自分がソナタに奉仕しているのを感じ、他の人たちは彼がソナタに奉仕しているのを感じるのであり、まさにソナタが彼を通して歌うのだ」と言ったときの『奉仕』のことで、

 いつでも立ち還ることができるように、覚えておきたい。