ガルシア・マルケス『族長の秋』

ガルシア・マルケス『族長の秋』を読み始めている、感想を書くほど読んでいない、それでも感想を書いてみる、間違ったことやずれたことを書くかもしれない、後になって全く無意味だったということにもなりかねないが、それを踏まえて書く。ぼくは『族長の秋』を読んでいる。ヴァージニア・ウルフ灯台へ』を読んでいるときと比べて、頭への負担がある、ぼくはこのところずっと長い間本を読むことができない、精神の隙間を見つけては自分を騙しながら読む、『族長の秋』の文体、圧のある名詞的な文の連なりは、文字通りぼくの頭を圧する、そしてその連なりはねじれ、別の領域へ踏み込む、ぼくの頭はついてゆくのでやっとだ、ガルシア・マルケスもプロットを綿密に立ててから小説を書いたらしい、長い時間をかけた文の圧、今のぼくにはまともに受け取ることは出来そうもない、調子のいい時に少しずつ読むのが合っているみたいだ、でもまだ始まったばかりだ、その先何が起こるかはわからない、だがゴダールが映画の最初の十分だか三十分だかを見たら途中でやめてすぐ次の映画館へ行ってまた十分か三十分見てまたはしごして……というように、ぼくにはもうこの小説のことが、少なくともその一部が分かったようになっている気がする、それは危険なことだが真実も含まれているのではないか、この調子で続くのだろうとぼくは思う、この圧を受け続けるかそうでないかによって読後の感触は違うのかもしれない、でもそれだけかもしれない、ぼくはこのガルシア・マルケスの文体を、その感触、手触り、内なる動きを授かるために、時間はかかるかもしれないが、読み続けるだろう。