現実の区切り

 谷川直子「おしかくさま」。中井久夫「最終講義ー分裂病私見ー」を読んでいたので、50代の姉妹二人と妹の娘一人と70代の父母、5人の人物たちが二行の改行ごとに一人称になることは、一人の作家が書いていることを知っているので分裂的で、統合失調的で、ざわざわした。まだ40ページほどしか読んでいないが、ここまでに一人一人が、話したりはしていないことを無意識に連関しているページがいくつかあり、統合されてゆく気配がある。ーここまでは上記の本を意識した読み方である。小説なのだから、どんどん分裂していけばいい。ただ、どのように作家は対応するのか。小説を非現実として、こっち側を現実とするあり方は、村上春樹を思い出させる。街で声をかけられても、小説を書いていないときの僕は本当にふつうの人なんだけどな、と「走ることについて語るときに僕が語ること」に書いてあった。谷川直子はそうではないだろう。いたるところに現実の話題が入っている。Kの言うところの、映像にはならない文章でありながら、現実の話題にはそう書かなくても映像を含んでいる。というより、現実の話題を読むときは、現実のものを見たり聞いたりするときの態勢になる。思考的な小説には現実の態勢が含まれるのか。