考える、自他、因果律

 考えるということは、その時いるところで目の前にしているものごとを、ないものにすることだ、と数日前に分かってきた。歩いていて、ふとなにかを考えているとき、道の向こうで誰かが転んでいても、気づかない。やり方によって、考えることは自らの生を狭めることにもなりかねない。世界は広く、体験は圧倒的だ。どのようにして考えるか。三つかそれ以上のことを「考える」と云っているかもしれない。なんにせよ、切り替えができるようになること、受けと与え、そして精神的な自立から、社会的な自立。どのようにして自他を捉えるか。僕にとって人の話を聞くことは、自他の境界が限りなく等しくなることだとしたら、どこで切り離すことになるか。僕は人と会っていてその相手に意図的に傷をつけることをしたことがないばかりか、絶対に相手を傷つけないようにすることで、僕とその相手という関係に甘えきっていた。小説作法でよく言われる、神の視点というものを、現実の一人の人間が取り入れることは、言語は因果律を想定して作られている、その罠に陥ることになる。言語の因果律に陥ることなく考えることができればいいんだ。