朝吹真理子の『きことわ』、保坂和志の『残響』。

 一ヶ月かけて朝吹真理子の『きことわ』を二度読んだことで、いま読んでいる保坂和志の『残響』を読みながらも、絶えず『きことわ』について考えている。『きことわ』について書いてみたい、書けそうだ、と思うのだけど、いざ書こうとすると書けない。いま、頭のなかは『残響』と『きことわ』を比べている。『残響』に収められている『コーリング』は、身体性がないこと、体のなさによって、人物間を行き来することができている。

「土井浩二が三年前に別れた美緒の夢の途中で目が覚めた朝、美緒はもちろん浩二の夢など見ていなかったし思い出しもしていなかった。」

 現実ではこのようなことを確認することはできない。だがこの小説のように、書いてしまえば書けてしまう。ぼくは『コーリング』を三年前に途中まで読んだことがあったが、途中までだったとしても、影響を受けていた。ぼくが誰かのことを夢に見る。またはぼくが誰かのことを考える。それと同じように、その誰かはぼくのことを考えたりするのだろうか、と。
 ぼくは『きことわ』と『残響』を比べている。『きことわ』は、おそらく、物語なのではないか。そして『残響』は、物語ではない。物語において重要なことは、そこに人物がほんとうにいて、そこに時間がほんとうに流れているということだ。『きことわ』は、だから、ひとつの人生のようなものとして、読むことができる。また、深く分析することができる。たとえば、永遠子と貴子は境い目を持っていないということ、境い目がないことによって、それぞれ別の場所でなにかから髪を引っ張られること、そのふたりの髪が、影のなかでつながっているのを、春子と和雄が見ること、つまり髪は境い目のなさであり、死の象徴であるということ、と、そこで、保坂和志が、自分の小説のなかの猫を何の象徴なのかと十年ほど聞かれ続けたということを言っていたことを思い出す。ぼくは『きことわ』に象徴を見出した。だがそれは、正しいのだろうか。
『残響』のなかの『残響』という短編は、まだ読み途中だが、『コーリング』と比べると、抽象的な記述が散見され、その抽象性が身体性になっていることがわかる。なにかを深く考えるとき、体によってわたしは拘束されていることを感じる。その拘束の感触が、身体性で、小説は、どこに体を置くかがひとつ重要なことだが、『きことわ』では、身体性は永遠子と貴子にある。『残響』では、「野瀬と彩子」と「原田とゆかり」が、対になっていて、はっきりと分かれている。身体性がなければ、そのふたつも混ざり合うことだろう、と書いてみて、それはほんとうに正しいだろうかと、あらためて別の角度から思う。抽象的な思考は、野瀬と原田だけが行う。それぞれが、それぞれの中心になっている。そしてふたつの中心が、ひとつの「家」によって繋がる。……いま分かるのはそこまでだ。まだあと六十ページある。

 ぼくはもっと書きたいことがあったはずだ。『きことわ』について。『きことわ』のAmazonのレビューを見たら、まったく不当な評価のされ方をしていて、あらためてAmazonのレビューはあてにならないな、と思った。そんなことはどうでもいいのだが……ぼくはとても深くこの小説を読んだつもりでいる。そしてこの小説についてなにかを書きたいと思っている。『残響』が読み終わったら、また『きことわ』を読もうか。それとも朝吹真理子の処女作『流跡』を読むか、『きことわ』から七年後に書かれた『TIMELESS』を読むか。

 いったいなにを書きたいのか。『きことわ』はとても凄い小説だ。それをあなたに伝えたいと思っている。だがどのように伝えればいいのか、まだわからない。