なにも書く気がしない。なにも考える気がしない。ぼくは空っぽだ。その目で、外を見る。雨が降っている。雨。
 書かなければならないという欲動がない。それなのに書こうとするのはなぜか。ぼくにはなにもないのである。空っぽのかたちを考える。なかになにかいれられるだろうか。
 朝吹真理子の『きことわ』と高橋源一郎の『ペンギン村に陽は落ちて』と保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』とカフカの日記を読んでいる。
『きことわ』は三十ページを越えたところだ。おもしろくなってきた。現実と夢の境い目、貴子と永遠子の境い目、それらが混ざり合う。そして、二十五年後の、貴子と永遠子の再会。どうなるのか、楽しみだ。
『ペンギン村に陽は落ちて』は、その前に読んでいた、『一億三千万人のための小説教室』のことがあってか、どのようにこの小説が書かれているのかを考えながら読んでいる。そして、この小説は、失敗している、と思った。だが、いまのぼくには、失敗できることもうらやましい。小説に挑戦することができているから。やはり、ぼくは真似ることから始めようと思った。
『書きあぐねている人のための小説入門』は、この数日はあまり読んでいないので、感想は控える。
 カフカの日記は、ちょこちょこと読んでいるが、おもしろい。うまく読むことができない。たしかめてみなければならない。不安なまま、目を落とす。ちかい距離がある。なにを見ているだろう。
 なにを見ているだろう。あなたは夢を見ていない。わたしは夢を見ている。さっきまで引っかかっていたことがある、それでも取り戻せない、不安なまま、通りすぎる、近づくものはなにか、できないことはなにか、考えられるかぎりにおいて、わたしたちは同盟を組む、そうして逃げてゆこうとするものを押さえる、導きが果てて、事実から遠のいたとしても。ありふれたできごとの数々から、命が逆行する、なにもない、そうだ、だからわたしは息をすることをやめようとする、風呂のなかで顔を沈める、目を開ける、なにが見える? 風呂の底、それは事実であり、ほんとうのことではない、なにが見える? なにも、見えない。それが正しく、わたしたちにふさわしいことなのだ。わたしは、かぼそく、声を出す。気泡が浮かぶ。顔を上げる。風呂のなか。いや、机の前にいる。さっきからわたしに語りかけようとするものはなにか。それは、おそろしいものか。不安で、それを不安となざすことなく、感じていて、大切にしたい、でも難しい、鳥のように飛びたい、でも、鳥のようにって? 黒板に爪を立てる音、さらに偶然から構成されるもの、月に意思を感じてしまうように、その通りのままに、書くこと。わたしたちは震えながら感じている。べつのせかいへ行ってしまってもいい、もう帰ってこれなくてもかまわない、わたしはすべてを賭けたい、そして生み出すのだ、あらゆるすべてのひとつのものを、やわらかくやさしく、ゆっくりと、なまたまごをのみこむように。