三枚の写真

 濡れたゆるやかな坂の地面に、四つの傘がひらかれて置かれている、ちょうどそこへ陽があたり、薄いピンクの花柄の傘と赤いふちのある白い傘が白くひかっている、透明な傘と紺色のチェック柄のような傘も、ひかりを反映しているが、柄がきれいに見える程度だ、ゆるやかな坂の手前の斜面は暗く、生い茂る草も枯れた草に混じり、生命力が稀薄に感じられる、ゆるやかな坂の奥の斜面は、四つの傘に並んで生えた、おそらく老木だろう、ぐにゃりとひねられたようなその木は、湿り気を好みそうな草が、木の肌をほとんど隠して茂っている、そしてその中央へ、陽が当たっている、傘の奥は家の敷地で、白い車の後ろが見えている、またその奥には、玄関らしい一区切りの空間がわずかに見える、そこに地続きに家の下部があり、沿って一定の高さの草が茂って、上部に陽があたっている、この四つの傘は四人分の傘なのだろうか、それともひとりかふたりが、気分によって違う傘を使うのだろうか。

 クリーム色の壁でできた、家の玄関が、右に向かって閉じられている、玄関はおそらく濃い茶色だが、影と、玄関より手前の段に置かれた木の鉢植え、その黄緑と赤の葉によって、わずかに隠れている、段には他にも三つ鉢植えがあるが、どれも背の低い花や観葉植物だ、段には一本、ポールのような茶色く太い棒が、上まで伸びている、玄関の左側、ちょうど玄関の中が見えるところに割と大きい窓があり、黒か茶色の柵がついている、その柵の下部に小さな透明な傘がふたつ、畳まれていないまま並んでかかっている、窓の下には、ピンク色の花を咲かす植物が地面に植わっていて、その左隣には水道があり、蛇口にホースがつながっている、玄関近くの敷地と区別するように、白い柵が地面にある、水道の周りには、松の木のような枝葉が茂っていて、その上にはふたつの大きな枝葉が窓の柵に覆いかぶさるように広がっている、玄関の右の壁には少し離れたところにチャイムがあり、その上に寺の屋根のような形の頭のついた電燈が、チャイムとともに影に隠れている、玄関の右の隅にも鉢植えが三つ、壁に沿って並んでいる。

 赤い屋根がわずかに見える、あとは草木が画面いっぱいに生い茂っているが、赤い屋根より手前の頭上に老木の血管のような黒い枝がざわざわと広がっている、手前にはひかりをいっぱいに吸い込んだ黄緑色の草があり、その奥は暗く翳っているが、さらに奥の特に右側はやはり手前と同じようにあざやかな黄緑色を見せている、血管のような枝の奥にはわずかに薄水色の空が見える、人の気配はない、おそらく鳥や虫たちもいない、木々と草だけが、敷地を埋めつくしている。

 結局ぼくは父親なので、かつてされたように息子であるぼくにものを暴力的に与えて、ぼくが場所になったり、場所であるところのものになったり、ディズニー映画のようにものが動いたり(そう、それは与える、与えられた、わたしたちがうごめいているのだ)、与える与えられるを拒絶したり、その拒絶によってやはり、ものたちは行き場をなくし、わたしの部屋で動くのだ、与えられたものをどうにかして加工しなければならない、別のものにして、ぼくもまた与えなければならない、だれに? Kはぼくに与えられることを恐れている、与えるを書かなければならない、どこに隙があるか、与える余地はあるか、与えたとして、どうなるか、せかいを変えたい、わたしとあなたのせかい、それはわたしたちとあなたたちのせかい、階段が一段ずつ崩れてゆく、急いで駆け上がる、あるいは駆け下りる、二つの可能性が行き場を失い、消える、静かに、静かに拘束された体は、磔にされ、高いところで、あるいは低いところで、鞭打たれる、痛みがほとばしり、階段はやはりない、わたしは痛みを与えられる、痛みは全身を貫く、全身がものとなり、精神はあふれ出て、正常を保つことができなくなる、苦痛の汁を、一滴、二滴、それが劇薬となって、磔にされるのがあなたになる、そしてあなたもまた、消える、わたしとあなたは、消えたことで移動したその場所で、それは場所と言えるものでもなくて、空であり、無であり、なにもないところであるがわたしとあなたがいて、それは透明なもの同士のようで、だれからも束縛されないと思っている、わたしたちは本を手に取り、そこに無数の、尋常ではない数の文字の群れを見て、意味をとる、なにか物語があるらしい、だれかがそれを書いたらしい、砂漠の砂のように、あるいは荒野に流れる川のように、それらは動いている、ぼくは、あなたとともに場所やものに絡まっていたが、そこから抜け出る方法があるらしい、それはそれを超えることだ、わたしはわたしを超え、あなたはあなたを超える、わたしはあなたを超え、あなたはわたしを超える、どのように? 体から腕を引きちぎり、雑な断面に、肉と血を見る、痛みを見る、その痛みは体を超える、体の延長である空間もまた痛む、いやこの部屋も、この部屋のものたちも痛む、壁が崩れ、ものたちが崩れ、残るのは純粋なあなただけ、そしてあなたもまた、わたしとともに崩れてゆくでしょう、すべてを囲い、すべてを外す、わたしとあなたがいなくならないように、いや、わたしとあなたがいなくなっても消えないように、わたしたちは取り残されなければならない、まだ何も変わっていない、存在が存在しないように、そしてあったはずの存在が、なかったはずの存在となるように、きみたちは無数のベッドに寝て、夢を見る、やがて忘れる夢、やがてなかったことになる夢、だが脳の中には残る夢、そこでの出来事を、存在させないために!

「南無疾翔大力、明らかに聞け、明らかに聞け」

「きみはいつまでもそこにいた、そして耳を傾けている、ぼくはあなたを捨て、そのときの光が、いつまでもぼくを離さない、夕暮れが青い? 導き、果てるもの、体中がざわめく、きみは微笑んでいる、ぼくはいつもあきらめていた」

「もう少しで、届きそうだ、そう思ってから、何年も経って、気づいたら、いなくなっている。影がつくられるとき、その生成の瞬間が、わずかに揺れ、かえりそうもなくなったとき、わすれていたはずのことを思い出す、待って! 引きちぎれたもの、そのときの空気を知りたい、そのときのかなしみを、幾層にも織り混ぜて、たったひとつのこと、たったひとつの空白が決めること、間違っているのなら忘れればいい、あなたはいる、あなたはいない」

「ここに書かれたものはすべて、書かれていない。鏡にあなたが映らないように、砂が風に流されるように、海が音を吸い込むように、最果てはいよいよ黒く淀む、助けたかったあなたをわたしは見失っている、死後硬直のように、氷のように、わざとらしい身振りのように、肉体と肉体が結ばれるように、返事をしないように、結論がないように、声がそっと聞こえるように、朝から夜にかけて、燃える日々の破片が割れて、音を立て、限界にまで達しようとする、人々は群れることを忘れる、空を見ることを忘れる、もう無理」

わたしの知らないあなたの言葉を、わたしは知ることになる。それによってあなたが変わってしまっても、わたしは大切にしなければならない。夜の木々が半透明な空気をわずかに触れ合わせながら、もう少し脱力して、でもそれは弛緩ではなくて、空気自体のものをいつまでも決めつけることはできない。遥か遠く、それは時間とか記憶とかさまざまなものを無理せず結びつけること、朝食は食べた? 今日は何をしていた? 振り返ることのできない感覚が、導き出すのを空回りして先取りして、呼吸がうまくできない、助けて、ときみは言ったんだ。もうじきまた会えるから、夜が明けてあなたの感触が、偽物みたいな顔をしても、消されないように、土をかぶせて、目を見張ることを約束します、誰も彼もがいなくなって、ひとりでいるとき、ただ書くことが、あなたとわたしを結びつけます。

朝吹真理子の『きことわ』、保坂和志の『残響』。

 一ヶ月かけて朝吹真理子の『きことわ』を二度読んだことで、いま読んでいる保坂和志の『残響』を読みながらも、絶えず『きことわ』について考えている。『きことわ』について書いてみたい、書けそうだ、と思うのだけど、いざ書こうとすると書けない。いま、頭のなかは『残響』と『きことわ』を比べている。『残響』に収められている『コーリング』は、身体性がないこと、体のなさによって、人物間を行き来することができている。

「土井浩二が三年前に別れた美緒の夢の途中で目が覚めた朝、美緒はもちろん浩二の夢など見ていなかったし思い出しもしていなかった。」

 現実ではこのようなことを確認することはできない。だがこの小説のように、書いてしまえば書けてしまう。ぼくは『コーリング』を三年前に途中まで読んだことがあったが、途中までだったとしても、影響を受けていた。ぼくが誰かのことを夢に見る。またはぼくが誰かのことを考える。それと同じように、その誰かはぼくのことを考えたりするのだろうか、と。
 ぼくは『きことわ』と『残響』を比べている。『きことわ』は、おそらく、物語なのではないか。そして『残響』は、物語ではない。物語において重要なことは、そこに人物がほんとうにいて、そこに時間がほんとうに流れているということだ。『きことわ』は、だから、ひとつの人生のようなものとして、読むことができる。また、深く分析することができる。たとえば、永遠子と貴子は境い目を持っていないということ、境い目がないことによって、それぞれ別の場所でなにかから髪を引っ張られること、そのふたりの髪が、影のなかでつながっているのを、春子と和雄が見ること、つまり髪は境い目のなさであり、死の象徴であるということ、と、そこで、保坂和志が、自分の小説のなかの猫を何の象徴なのかと十年ほど聞かれ続けたということを言っていたことを思い出す。ぼくは『きことわ』に象徴を見出した。だがそれは、正しいのだろうか。
『残響』のなかの『残響』という短編は、まだ読み途中だが、『コーリング』と比べると、抽象的な記述が散見され、その抽象性が身体性になっていることがわかる。なにかを深く考えるとき、体によってわたしは拘束されていることを感じる。その拘束の感触が、身体性で、小説は、どこに体を置くかがひとつ重要なことだが、『きことわ』では、身体性は永遠子と貴子にある。『残響』では、「野瀬と彩子」と「原田とゆかり」が、対になっていて、はっきりと分かれている。身体性がなければ、そのふたつも混ざり合うことだろう、と書いてみて、それはほんとうに正しいだろうかと、あらためて別の角度から思う。抽象的な思考は、野瀬と原田だけが行う。それぞれが、それぞれの中心になっている。そしてふたつの中心が、ひとつの「家」によって繋がる。……いま分かるのはそこまでだ。まだあと六十ページある。

 ぼくはもっと書きたいことがあったはずだ。『きことわ』について。『きことわ』のAmazonのレビューを見たら、まったく不当な評価のされ方をしていて、あらためてAmazonのレビューはあてにならないな、と思った。そんなことはどうでもいいのだが……ぼくはとても深くこの小説を読んだつもりでいる。そしてこの小説についてなにかを書きたいと思っている。『残響』が読み終わったら、また『きことわ』を読もうか。それとも朝吹真理子の処女作『流跡』を読むか、『きことわ』から七年後に書かれた『TIMELESS』を読むか。

 いったいなにを書きたいのか。『きことわ』はとても凄い小説だ。それをあなたに伝えたいと思っている。だがどのように伝えればいいのか、まだわからない。

気づいたら暗くなっていたんだ、物干し竿には洗濯物が、時折空からの光、かなしみの鳴り、自由に認め合いたいと願う、意味のないことばの連なり、浮遊するもの、雨の中のサイクル、心臓部には卵白が、とめどない勢いの静寂、土の影の紫色の、その次の証を最果てて、縮まってゆくメロンの幽体、明らかな感じた向こう、相対的に静かに導いてゆく、土のかたち! もうすぐ晴れるかもしれない、その時には笑うことが、間を通り越して、元気になるために切って、自動的で、そのことを苦しんで、ガムテープを貼るんだ、街角できみを待つ、そこにぼくはあらわれる、どうして、と君、わかることをわからないように入ってゆく、考えられるものの糸、辻褄を合わせてゆく、もう少しで、帰ってくることができるから、また遠くで、紙を切り刻んでゆく、その粉を空へ、そして川へ散ってゆく、これが呪い外しだ、ぼくにはこのようにしか書くことができない。

わたしたちはいつも、どこにあるのかを知っている、古い屋敷のなかで、影がうつろいゆくとき、紫色の信じがたい値が、なにかを運ぼうとしている、その距離のなかで、なにを見たい? 不安にかられながら、時の経つのを待っているような、辛いものを食べた後の甘いもののような、古びた光景を目の当たりにしている、信じられないことのなかで、もう何度も満ちてゆくのである、積み木を崩しながら、紫色の繁殖に目を届かせて、まだ帰ることができない、わたしたちは考えなければならない、なにを、なにかを、その空気が切れるように、切れたそれを飲み込むために、もう少し、待っていてほしい、まだ絶望感があるときのような、古い感触を手にして、満ちてゆく光景、絶景は一瞬のうちに飲み込まれても、最果ててゆく季節、緑色のままで、考えられるものをすべて注ぎ込みます、わたしたちはミルクの足し算をして、あふれさせます、変えようとするものをたしかに、蟹のようになりながら、キャラが崩壊して、一から始めようと思った、黒いチューブのように。