村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』

 村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』がもう少しで読み終わる、読み終えてから感想を書くべきかもしれない、だがわたしはそれに従わない、なぜならただなかでいる方が分かることがあるからだ、読み終えると俯瞰してしまう、俯瞰すると書物は腐る、生きた書物を浴びている、ぼくは朝から書こうとしていたことをまとまりなく書いてみようと思う。村上春樹を構造的に分析してパターンを読み取り退屈だと言う人たちがいる、そう書かれたものを読んでいて思うのは、村上春樹の登場人物は「ほんとうに生きている」ということを見失っているのではないかということだ、「かれはそこにいた」と書いてみれば、何者かである「かれ」がどこかである「そこ」にいることになる、文を作ればそうだ、誰にでも「かれはそこにいた」と書くことができる。だが村上春樹の場合は「かれはそこにいた」と書いた場合、ほんとうに、生きているものとして、実感できるほどに「かれはそこにいた」ことになる。例えば山下澄人の場合、「かれはそこにいた」と書いたなら、カッコで(でもそこにはいなかったかもしれない)または(そこなどなかったかもしれない)というような不確実なものとなる、それはそれで面白い、だが村上春樹の登場人物の実在感とはまるっきり違っている、生きた血が流れている、これは特質すべきことだ、ぼくにはそう思える、あるいはぼくの見方は単純素朴であるかもしれない、そうだと言われたら反論はできない、そもそもぼくは感想を書くような身分か?そんな身分があるとしてのことだが、ぼくは何を書いているだろう?そう、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のことだ、ぼくは『騎士団長殺し』を一年かけて読み終えた時の衝撃を思い出している、分裂病の発病と回復を描いたような、途方もない小説だとぼくは受け取った、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』にも『騎士団長殺し』と似たシーンがある、洞窟のシーンだ、作家は書き得るモチーフというものは限られているのかもしれない、どんなに本を読み書くことの訓練を積み重ねたとしても書くことは似通ったものかもしれない、村上春樹の小説を読んでそう思う、感想はこのくらいにしておく、疲れた、感想二日目、以上。